こころの湯(洗澡/SHOWER)(中国映画・1999年) |
<シネ・ヌーヴォ>
2007年11月18日鑑賞
2007年11月28日記
下町の銭湯を守る父親と、それを捨てて都会で働く長男との確執・・・。いかにも現代中国らしい縮図を、第6世代監督の旗手の1人張楊が心温まる物語に・・・。銭湯に集まる常連客キャラも面白く、こんなコミュニティはいつまでも大切にしたいものだが、さて現実は・・・?また、中国における物権法の制定と再開発のあり方は大切な論点だから、是非お勉強を。
本文はネタバレを含みます!!
それでも読む方は下の「More」をクリック!!
↓↓↓
ここからはネタバレを含みます!!
読まれる方はご注意ください!!
↓↓↓
監督:張楊(チャン・ヤン)
劉(リュウ)(銭湯「清水池」を経営する老人)/朱旭(チュウ・シュイ)
大明(ターミン)(深圳で働く長男)/濮存昕(プー・ツンシン)
阿明(アミン)(知的障害のある次男)/姜武(ジャン・ウー)
1999年・中国映画・92分
配給/東京テアトル、ポニーキャニオン
<まずは、銭湯の日中比較から・・・>
私はサウナが大好きだから、韓国旅行のときは必ず行っていた。また足ツボマッサージが大好きだから、中国旅行の時は必ず行っていたもの。
他方、銭湯は中学・高校時代は地元松山で、大学時代は下宿先の豊中の蛍池でよく通っていたが、司法修習生になってからは、基本的に行ったことはない。ただ、スーパー銭湯がはやっていてとか、以前住んでいた四天王寺のマンションのすぐ近くに銭湯があったので行ってみようというような動機で、数回行ったことがある程度。
そんな日本人的な感覚で銭湯を考えてみると、北京の下町で劉さん(朱旭/チュウ・シュイ)が経営している、庶民的な銭湯である清水池は結構高級だということがわかるはず。
第1に浴槽は天井が高く、広い。
第2にお茶はもちろん、あかすり、マッサージ吸い玉などのサービスが充実。
第3にこおろぎ相撲や中国将棋などの娯楽施設も充実。
日本の従来の銭湯は、せいぜい浴室にゲルマニウム浴槽があったり、ジェットバスがあったりする程度だが基本的に狭い。また脱衣場も狭く、せいぜい電動マッサージ機が1台置いてあり、牛乳などの飲みものを売っている程度。もっとも近年はやりのスーパー銭湯ともなれば、全体的に広く、飲食やマッサージのサービスは充実しているが、これはたいていは車でなければ行けないところにあるのがメリットであり、かつデメリット。
<張楊監督の冒頭の演出にビックリ・・・>
張楊(チャン・ヤン)監督は第6世代監督の旗手の1人で、『胡同(フートン)のひまわり』(05年)は大きな問題提起作だった。そんなオーソドックスな作風の張楊監督が、監督2作目のこの映画の冒頭にはビックリするようなシーンを用意しているから、それに注目!
それは、いつももうけ話ばかり考えている清水池の常連客の1人が夢の中で思いついた、ガソリンスタンドにある全自動洗車機と同じような全自動人間洗い機の姿。料金を払うと入口が開き、客は服を脱ぎ全裸となってターンテーブルの上に立つ。すると上下左右からせっけんとシャワーが吹き出すとともにボディ洗いのブラシが全身をかけずり回り、身体はキレイサッパリ。そして、最後は髪の毛を含めた全身を乾燥してくれてジエンド。
その料金はスクリーン上では明示されていないのでわからないが、こりゃ便利と思うかそれともそんなバカなと思うかは、あなた次第。もちろん、おフロはやはり広い湯船の銭湯でなくちゃと思っている、清水池の常連客は、そんな構想を一笑に付してしまったが・・・。
<全自動人間洗い機の次は・・・?>
全自動人間洗い機のシーンが終わると、続いてそれと全く対照的な清水池の姿が映し出される。劉を手伝っているのは次男の阿明(アミン)(姜武/ジャン・ウー)。彼は精神障害をもっているが、受付はもちろん、銭湯内での仕事はすべてOK。劉自身もマッサージをやったり、客の相手をしたりとフル稼働。2人ともここで仕事をしているのがホントに楽しそう。また客はほぼ常連客ばかりらしく、フロから上がるとあらゆるサービス設備をフルに活用し楽しんでいることがよくわかる。そう対比すると、やはり銭湯は身体の汚れを洗い落とすためだけの施設ではないことは明らか・・・。
<なぜ長男が帰ってきたの・・・?>
そんな清水池に突然顔を出したのが長男の大明(ターミン)(濮存昕/プー・ツンシン)。パリッとアイロンの効いたワイシャツにネクタイを締め、ビジネスマンらしくきちんとスーツを着こなした彼の登場は、清水池の雰囲気と少し違和感があるが、大明の顔を見た阿明は心の底からうれしそう。しかし、父親の劉は大明の顔を見た途端に怪訝そうな表情を。つまり、「なぜ急に帰ってきたのだ?」という顔つきだし、現にそれが言葉にも。
そこで大明は仕方なく、「いや、ちょっと里帰り・・・」とごまかしたが、実は大明が帰ってきたのは阿明からあるハガキを受けとったため。つまり、そのハガキには父親が横たわる姿が書かれていたため、大明はてっきり父親が倒れたと思って急遽戻ってきたわけだ。ところが、その父親はピンピンして元気で働いている。こりゃ、一瞬気まずくなるのは当然。この最初のシーンで、この父親とこの長男の間には、何らかの大きな確執があることがミエミエに・・・。
<大明の目に見えてきたものは・・・?>
仕方なく(?)2、3日滞在することになった大明だったが、その2、3日の滞在の中で大明があらためて清水池での父親と弟の楽しそうな仕事ぶりと、そこに集まる常連客との心のふれ合いを実感し、自分の忙しいビジネスマンとしての生活ぶりを対比させたことはまちがいない。そんな彼の目に今見えてきたものは・・・?
張楊監督はこの映画に大明の妻を登場させず、大明がケイタイで話す相手としてのみ位置づけている。大明の仕事先は1979年に経済特別区に指定された深圳。つまり、改革開放政策を打ち出した鄧小平が、香港と隣接する辺境の小さな農村に着目し、特別の優遇政策によって外国資本、先端技術そして資本主義的なビジネス手法を導入して工業化を促進するためにつくりだした経済特別区だ。きっと彼は北京の郊外で父親の跡を継いで清水池のおやじにおさまることに満足できず、大きなビジネスチャンスを求めて家を飛び出し深圳に向かったのだろう。したがって、今彼が清水池に戻ってもすぐに自分にピッタリの居場所を見つけることができないのは当然。しかも父親と弟そして常連客たちの楽しそうな様子に一種の疎外感すら感じたはずだ。そこで大明は、いよいよ明日の飛行機で帰ると申し出たが・・・。
<本音がぶつかったのは・・・?>
劉と阿明は夕食後のランニングを楽しみにしているようだが、阿明が知的障害をもっているだけにどこかふつうのランニングとは違っている。その違いとは、劉が常に阿明のことを見守り、常に一緒に行動しようとしていること。そんな劉だからこそ、翌日起こった「ある事件」には激昂することに・・・。
その事件が起こったのは、大明が飛行機のチケットを買っている時。チケットを買うためには街に出なければならないが、阿明が「ボクもついていく」と言ったため、劉もそれを許し、一緒に街に行くことに。日常清水池で見る風景と全く違うことに戸惑いつつ阿明の興味があちこちに広がっていったのは、阿明の知的レベルからして仕方ないところ。つまり、そんな危険があることを十分見込んで、大明は阿明の行動に注意をしなければならなかったわけだ。ところが、大明がカウンター越しにきれいなおネエちゃんと対応している間に・・・?
こりゃヤバイ。いくら周辺を捜しても阿明はいない。また清水池に電話しても阿明は帰っていないとのこと。常連客たちは「心配することはない。すぐに戻ってくるよ」と慰めてくれるが、劉が全然納得できないのは当然。そんなイライラの極限状態の中、ついに劉は大明に対して厳しい言葉をぶつけることに。この2人の場合、こんな本音を大明が深圳に行く前にぶつけ合っていればよかったのかもしれないが・・・。
<面白いキャラ その1─A君>
この映画は92分とシンプルだが、清水池には面白いキャラの人物が5人登場するので、A、B、C、D、Eの呼び名で彼らのキャラの一端を紹介しておこう。その1は、冒頭の全自動人間洗い機を想像し、それを商品化して大儲けしようと考えている若者A。彼はいわば改革開放政策の申し子のようなもの(?)だが、壊れているネオンの修理をちゃんとするという本業をおろそかにしているようではやっぱりダメ。そのため、借金を返せと、清水池の中までヤクザ(?)から追いかけられる羽目に・・・。
<面白いキャラ その2─こおろぎ相撲のBとC>
常連客の2人(1組)は、フロに入る楽しみだけではなく、こおろぎ相撲(闘こおろぎ)の勝敗を楽しみに来ている老人BとC。ネット情報によると、この闘こおろぎは長い伝統があるうえ、北京では毎年トーナメントが開催されているらしいから、興味のある人は是非調べてみては・・・。もっとも、普通こおろぎは湿気を嫌うため、あのような場所では闘こおろぎはやらないらしいが、あえてそれを劇中に入れた張楊監督の意図は・・・?
それはともかく、いい年をしたおじいちゃんが2人ムキになって勝負にこだわり、挙げ句の果ては大ゲンカまでしてしまう姿には唖然・・・。もっとも、それはその後の2人の関係の修復ぶり(?)を際立たせるための演出かも・・・?
<面白いキャラ その3─夫婦ゲンカばかりのDさん>
いつも夫婦ゲンカばかりしているDさんも面白いキャラ。清水池は男風呂ばかりだから、清水池はDにとって夫婦ゲンカの後逃げ込むのに格好の場所らしい。しかし、気の強い妻は清水池に逃げ込んだ亭主を追っかけて、堂々と男風呂の中まで侵入してきたからさすがにビックリ!
もっとも、劉がゆっくりとDから夫婦ゲンカの原因を聞いてやると、案の定その原因は性の不一致。つまり、Dは妻との間ではどうもあの方面が役に立たないらしい・・・?そこで劉が考えた治療法(?)は、何とも大胆かつ大規模な(多くの人々の協力を要する)もの。さて、それによってDの夫婦仲はヨリを戻すことになるのだろうか・・・?
<面白いキャラ その4─『オーソレミヨ』を歌う青年E>
この映画では、知的障害をもつ次男阿明を演じた姜武の演技が光っているが、いつもフロの中でシャワーを浴びながら『オーソレミヨ』を歌う青年Eもなかなかの好演。日本の銭湯でも、昔は湯船に浸かりながら鼻歌を気持ち良さそうに歌う人がたくさんいたが、最近は公衆マナーがうるさいため、そういう人は少なくなっているはず。しかし考えてみれば、これだけ大声で歌われたら、それを迷惑に思う客がいるのも当然。しかし、そんなEをいつも応援するのが阿明。もっとも、フロ場でのそんなシーンが、後にあんな感動的なシーンに結びつくとは誰も考えなかったはず・・・。
なぜEはいつもあんな風に歌っているの・・・?それは、舞台に立ち、観客に注目されると緊張して声が出なくなってしまうため。そんな彼が、映画のラスト近くになって音楽祭の舞台に立つことに。もちろん、曲名は得意とする『オーソレミヨ』だが、前奏が終わったのに彼は緊張して声が出ないまま立ち往生。こりゃヤバイ。そこで一計を案じた阿明が持ち出したのは、水道の水を引いたホース。さて、阿明はこれで何をするの・・・?ここまで書いたら、あなたにもきっとわかるはず・・・?
<清水池の転機は・・・?>
私は愛媛県松山市の出身で、いよいよ2008年4月以降同級生は順次還暦を迎えていく年。そこで還暦記念パーティーの計画が練られているが、既に松山の父親が死亡したため、その家業を継いでいる人もいる。私には引き継ぐべき家業もないし、実家に戻って古い家やお墓を守らなければならないという意識もないから、この映画における長男大明と同じように、自分の好きな人生を好きなように生きていくだけ。
きっと大明も深圳で働いている時に、劉が死亡したというニュースを聞いたら、葬式だけ出して清水池は廃業とし、阿明の面倒をどのようにみるかが課題として残るくらいのはず。しかし今、大明が清水池に戻っている時、父親が死亡すれば・・・?
張楊監督は意地悪にも(?)そんな状況を設定し、大明の生き方を問うているが、さて、大明の選択は・・・?
<夢のような物語も・・・>
『こころの湯』には一瞬夢のような物語とシーンが登場する。その物語の主役らしい花嫁は内陸部に住んでいるが、そこでは水は貴重品だからフロに入る習慣などあろうはずがない。そんな話を客に対して切り出す劉の魂胆は、ひょっとして銭湯の値打ちを高めようとするもの・・・?いやいや、これはそんなさもしい根性にもとづく話ではないようだ。
劉の話では、いくら水が貴重品でも、婚礼の前の日には花嫁は必ずフロに入って身体を清めなければならないらしい。そこで、花嫁の父親は、村の家を1軒1軒回っり穀物と1杯の水を交換して、花嫁に風呂を与えたのだそうだ。そんな内陸部を舞台としたお話を描くシーンが、幻想的な雰囲気の中、突然登場。どうも、この花嫁は劉の妻、つまり大明と阿明の母親の話しらしいが、さてその真偽のほどは・・・?
<中国の再開発を考える>
中国では2007年3月に物権法が制定され、10月に施行されたが、これによって土地の利用権を安く買い受けた開発業者が大規模な再開発に乗り出し、わずかの補償金での立退き、家屋の取り壊しが急ピッチで進んでいるらしい・・・?日本には昭和44(1969)年に制定された都市再開発法があり、狭義の(つまり都市再開発法にもとづく)市街地再開発事業には「等価交換」の原則をはじめ多くの権利保障の規定がある。また、都市計画法という「母なる法」によって膨大な都市法体系が形成されているから、中国のように再開発のために簡単に家を放り出されるということはありえない。しかし、その点中国では・・・?北京では・・・?
清水池を含む一帯は前々から再開発の区域に入っていたらしいが、劉はそんな情報に無関心だったよう。「市民参加のまちづくり」という理念からはそんな劉の態度には問題があるうえ、再開発は決められたものとして従うしかないと住民全員が考えていることにも問題がある。もっとも、そんな問題を弁護士に相談・依頼して裁判で闘うのはあまりにも大変だから、決められたことに対しては黙って従うのが、中国のそして北京の庶民の知恵・・・?『胡同のひまわり』では再開発のあり方について問題提起した張楊監督も、『こころの湯』では再開発の決定に黙って従う庶民の姿を描いているが、さて彼の本心は・・・?
<こんな心温まる映画を日本でも・・・>
最近の邦画は、この『こころの湯』のように、「父と息子の確執」「崩れゆく下町のコミュニティ」等のテーマをしっかりと示しながら、ほんわかと心を温めてくれる作品が少なくなっている。「そんなことはないよ」という邦画の代表が『ALWAYS 三丁目の夕日』(05年)と『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(07年)の2作だが、11月27日に観た邦画『歓喜の歌』(07年)も、『こころの湯』に負けず劣らず心温まるものだった。
そんな映画に仕上げるについては、もちろん張楊監督の演出が大きいが、清水池の主人を演じた朱旭の老練な演技と、次男阿明を演じた姜武のとぼけた演技が大きくものを言っている。朱旭は『大地の子』(95年)で日本人にも有名だが、私が「中国映画の全貌2007」で観た『乳泉村の子』(91年)、『孔家の人々』(92年)、『變臉 この櫂に手をそえて』(96年)にも出演している名優。また、姜武は姜文(チアン・ウェン)の実の弟だと聞いてビックリ。
日本でもこんな心温まる映画をどんどん企画し、製作してほしいものだが・・・。
2007(平成19)年11月28日記