マイ・ブルーベリー・ナイツ(フランス、香港映画・2007年) |
<TOHOシネマズ梅田>
2008年3月22日鑑賞
2008年3月24日記
香港の大監督王家衛(ウォン・カーウァイ)が、ハリウッドの名だたる大スターを起用して初の全編英語作品に挑戦!その主役が映画初出演の歌手とは意外だが、テーマとする「男と女の距離」の表現にはそんな彼女の声が最適・・・?例によって多少理屈っぽい面はあるが、それはウォン・カーウァイ流と割り切って楽しむのがコツ・・・?しかして、あなたの満足度は・・・?
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監督・脚本・製作:王家衛(ウォン・カーウァイ)
エリザベス/ノラ・ジョーンズ
ジェレミー(カフェ・オーナー)/ジュード・ロウ
アーニー(妻と別れたアルコール中毒の男)/デイヴィッド・ストラザーン
スー・リン(アーニーの元妻)/レイチェル・ワイズ
レスリー(ギャンブラー)/ナタリー・ポートマン
2007年・フランス、香港映画・95分
配給/アスミック・エース
<英語作品でも、テイストはあくまでウォン・カーウァイ流!>
三池崇史監督の『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(07年)は全編英語劇だったが、そのつくり方はあくまで三池流。またスウェーデンの女性監督スサンネ・ビアのハリウッド進出作『悲しみが乾くまで』(08年)もやはりスサンネ・ビア流。それと同じように、王家衛(ウォン・カーウァイ)がはじめて挑んだ全編英語作品も、そのテイストはあくまでウォン・カーウァイ流!
トラブル続きのため完成まで5年もかかった前作の『2046』(04年)と違い、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』は準備期間やロケハン期間は別として、撮影期間は実質7週間強で完成したらしい。それはきっと、2人の人間(男女)を隔てる距離というテーマが明確だったため。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』というタイトルはこの映画の一方の主人公ジェレミー(ジュード・ロウ)が自分の店で焼いているブルーベリーパイをイメージしたものにすぎず、ウォン・カーウァイの興味と関心は、あくまで人間の営み(男女の恋)にみる距離感。
香港の名だたる俳優を起用して数々の名作をつくってきたウォン・カーウァイが、今回はハリウッドの名だたる俳優を起用して、そんなテーマにどのように切り込むのだろうか・・・?
<ヒロインは何と映画初出演の歌手!>
この映画にはジュード・ロウ、レイチェル・ワイズ、ナタリー・ポートマンという3人のビッグネームがある。ところが、主役(ヒロイン)のエリザベス役のノラ・ジョーンズの名前は聞いたことがなかった。プレスシートによると、彼女は世界的に有名な歌手とのこと。ウォン・カーウァイが彼女を主役に起用したのは彼女の声に惹かれたためらしい。たしかにそれなりの存在感はあるし、演技も初主演にしては上出来だが、やはりレイチェル・ワイズやナタリー・ポートマンの美しさと存在感に比べると、その差は歴然・・・?
私としては、ナタリー・ポートマンがこのエリザベス役をやった方が、もっと表現力が豊かになったのではと思ってしまったが・・・。
<ジュード・ロウの演技力と存在感はさすが>
一般的には、男は船員で女は港という設定が落ち着くもの。フーテンの寅さんがその典型で、寅さんは葛飾柴又にさくらが待っているから、いつでも自由で気ままな旅に出かけることができるもの。ところがこの映画は逆で、ジェレミーとの対話の積み重ねによってやっと失恋の痛みから少し立ち直りかけたエリザベスが旅に出ていくのに対し、ジェレミーはじっと店で彼女の帰りを待つという設定。
『スルース』(07年)でマイケル・ケインとの見事な2人芝居を演じたジュード・ロウの演技力と存在感はこの映画でも際立っている。失恋の痛みをひきずっている女にしてみれば、いつでもやさしく話を聞いてくれるうえ、しっかりした反応を示してくれるこんな男性がいれば大助かり。したがって、エリザベスは旅に出た後もくり返しジェレミーに対して日々の思いを記した手紙を送ることに。それは決してラブレターではないが、それによって2人の距離が少しずつ縮まっていったのはまちがいなし・・・?
<メンフィスで出会った物語は・・・?>
ニューヨークを離れて57日目。エリザベスは今ニューヨークから1120マイルのメンフィスにいた。彼女の稼ぎはダイナーでのウエイトレスとしてのものだったが、不眠症の彼女は夜も酒場の従業員として働くことに。忙しさは時に人間にとってヘタな薬よりよほど役に立つもの。日々の労働に追われる中、エリザベスが少しずつ失恋の痛みを忘れていったのは当然だろう。
今彼女の目の前には、絶望的な距離感に苦しむ中年の警察官アーニー(デイヴィッド・ストラザーン)とその別れた妻スー・リン(レイチェル・ワイズ)がいた。映画の冒頭ジェレミーの店の中で交わされるジェレミーとエリザベスとの会話にも、たとえば「すべての出来事には理由がある」と主張するエリザベスに対して、やんわりと反論する(?)ジェレミーの説など、いくつかの論点をめぐって傾聴すべき互いの価値観がみえる面白いシーンがあった。それはメンフィスでも同じ。多分、アーニーとスー・リンの離婚手続は終了しているよう。しかし、アーニーはその現実を受け入れることができず、あくまでスー・リンは自分の妻だと思い込んでいるから、始末が悪い。その結果、エリザベスが勤めている酒場で2人が遭遇すると、たちまちトラブルに。
最終的にアーニーは交通事故で死んでしまう(自殺?)のだが、それによって、ひょっとしてスー・リンとの距離は縮まるの・・・?『ナイロビの蜂』(05年)でみせた輝くような美しさとは異質の、少し病的な人妻(?)スー・リン役を、前髪で額を少し隠しながらレイチェル・ワイズが演じているが、その魅力は同じ。さてアーニー亡き後、酒場でのアーニーのツケを清算し、一人メンフィスの町を去っていく彼女にホントに行く先はあるの・・・?
<エリという町にも、孤独な女が・・・>
『マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋』(07年)では全然その魅力が発揮できていなかったが、今最も才能にあふれ多彩な役を演じられる若手女優がナタリー・ポートマン。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』での彼女の役は、若く美しいギャンブラーであるレスリー。彼女の信念は「人を信じるな」だが、そんなヒネくれた根性になったのは、ラスベガスに住むギャンブラーの父親との確執のせい・・・?
エリザベスがそんなレスリーと出会ったのは、ニューヨークを離れて251日、ニューヨークから5603マイルのエリという町だ。自信満々でカードの勝負に勝ち続けていたレスリーだったが、最後の大勝負でまさかの敗北。さあ、そこからの彼女の復活へのチャレンジが見モノだ。男たち(?)への借金の申し込みに失敗したレスリーは、エリザベスが車を買うために貯金していると聞き、ある提案を。それは、貯金額2200ドルを提供すれば数時間後に30%の配当をつけて返すというもの。当然のように出された「もし負けた場合は?」とのエリザベスの質問に対しては、即座に「私の乗っているピカピカのジャガーの新車を譲るワ」ときたから、がぜんエリザベスは真剣に考えることに。その結論は当然ゴーとなったが、さて勝負の結果は・・・?
結局エリザベスはその車をもらうことになったから、勝負はレスリーの再度の敗北と思うはずだが、そこには一流のギャンブラーらしい人間の心理を巧みに読んださまざまな表とウラがあるので、あなた自身の目で。そして、ラスベガスの父親のもとへ帰るため車に乗せてくれとレスリーから頼まれたエリザベスは、エリからラスベガスまでの「自家用車」による2人旅の中、どんな真実に出会い、どんなことを学ぶのだろうか・・・?
<ニューヨークを離れて300日・・・>
人間は、男でも女でも過去を忘れることができる動物。また男に比べて女は、新しい状況の中でよりうまく過去を忘れ捨て去ることができる動物。かどうかは知らないが、エリザベスの場合は、ニューヨークを離れて300日という時間によって完全にあの失恋の痛手を忘れリフレッシュできたようだ。
そうすると、彼女の次の向かう先はただ1つ、ニューヨーク。つまりジェレミーが経営するあのカフェだ。エリザベスからの手紙を何度も受けとっていたジェレミーは、エリザベスという名前だけを頼りに必死にその行き先を探し電話をくり返したが、結局彼女にたどり着くことはできなかった。ジェレミーにとっては自分が経営しているこのカフェこそが自分の居場所。エリザベスがきっとここに帰ってくると信じていたかどうかは映画の中では微妙だが、エリザベスからの電話が入ると一気に彼の顔がイキイキと輝いたからきっとそうだ。
ちなみに、ニューヨークに戻ってきた彼女が、かつての恋人が新しい彼女とイチャついていたアパートを確認したシーンは、私には意外だし理解不能。これはストーリーの流れとして不自然では・・・?また、そのアパートは「FOR SALE」とされていたが、これを見たエリザベスの気持は・・・?
それはともかく、300日ぶりにジェレミーのカフェで再会した2人にはそこでどんな展開が・・・?美しいラストシーンはいつもウォン・カーウァイとチームを組んでいた杜可風(クリストファー・ドイル)の撮影ではないものの、やはりウォン・カーウァイ流だから、しっかりそれを確認しよう。
<抽象的で理屈っぽいのがウォン・カーウァイ流・・・?>
ウォン・カーウァイ流とは?そのテイストは何?あらためてそう言われると、それは難しい。また人によっても違うはず。私の独断と偏見によれば、ウォン・カーウァイ流とは第1に抽象性、つまり明確に1つの結論を示さず、観客にそれを委ねてしまうところ。第2に、それにもかかわらず映画の中の議論が結構理屈っぽいところ。私はそう考えているが、さてあなたは・・・?
まず後者の理屈っぽいところは、冒頭でのジェレミーとエリザベスの間で交わされる議論(?)やラストでのエリザベスとレスリーとの間の議論(?)をみれば明らか。また前者の抽象性は、①冒頭のジェレミーとエリザベスの議論について、どちらが勝ちかという判定を下さないところや、②アーニーが死んでしまった後スー・リンは一人どこへ行ったのかを示してくれないところ。さらに③父親の死亡を確認し、涙を流したレスリーがエリザベスと別れた後一人どこへ行ったのかも教えてくれず、自分で考えろとつき放しているところ、などたくさんある。
ちなみに、今回の『マイ・ブルーベリー・ナイツ』もがっちりと固められた脚本によって映画がつくられたのではなく、その場、その時のインスピレーションによってセリフや展開を自由に変えていくウォン・カーウァイ流が貫かれたらしい。しかし多分、結論はこうするとかっちり決まっていたのでは・・・?なぜなら、この映画のように明確で具体的なハッピーエンドは、私の記憶する限りウォン・カーウァイ作品ではじめてだから・・・?
<禁煙中の人や嫌煙運動家は観ない方が・・・?>
昔から映画にはタバコが小道具として大きな役割を果たしているが、この映画ではそれが特に著しい。ジェレミーが吸っているのはなぜか自分で紙で巻いたタバコだが、それってタバコの味にかなりのこだわりをもっていることを示すもの・・・?それは、ほんの少しだけ登場する、ジェレミーの恋人だった女性(?)が、久しぶりにジェレミーの手づくりの紙巻きタバコを吸った時「少し味が変わったの」と質問していたことからも明らか・・・?
アーニーとスー・リンの物語は酒が中心だが、エリザベスとレスリーの物語でもタバコが重要な小道具となっている。そして、ラストに登場するのもエリザベスを待つジェレミーが、寒い中店の外でじっと自分で巻いた紙巻きタバコを吸っているシーン。人間はくり返し同じようなシーンを観ていると自然にその影響を受ける動物だから、こんなにタバコを吸うシーンばかり観ていると映画鑑賞後思わずタバコに手がいった観客も多いのでは・・・?すると、禁煙中の人や嫌煙運動家はこの映画を観ない方がいいかも・・・?
2008(平成20)年3月24日記